宇多田ヒカルは歌姫というよりは…歌巫女?

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ネットで宇多田ヒカル評を漁っていると『歌姫』というワードを見かけることが多々ある。そのたびに私は違和感を感じていた。「…いや、姫ではないだろう」と。

目次

アレは「姫」なんて可愛いもんとちゃうぞ

私は宇多田ヒカルの楽曲が大好きなので、彼女のインタビュー記事など随分読み込んできたほうだと思う。見た目も男ウケしそうだし可愛いと思う。が、私はどうしてもアーティストとしての宇多田ヒカルを歌”姫”だと思えない。というのも、彼女の創作活動はどこか神との交流っぽいからなのだ。だから姫というより音楽という神に仕える巫女なのだと捉える方がしっくりくる。

彼女にとって、作曲作業で音を探しているときはいわば神託(神の意を訊くこと)であり、歌うことは祈祷であり、タイアップは俗世の祝祭における神事委託みたいなもんなんなんだと思う。インタビューとか自伝から察するに、本人もそう思ってると思う。

一人で音楽作ってるときとか一人で歌詞書いてるときとかっていうのは、非常にテンションがあがるというか、それ以外にはないくらいの集中力――爪楊枝サイズのすごいちっちゃーいミニパズルをやってるときくらいの集中力がずっとあって、なんかこう。閃きとか降ってくる、『あー、きたきた!』みたいな、『おー、神とつながった!』!みたいな、不思議な、自分よりも自分が高いところにいる感覚・・・

rockin’on japan ロッキンオンジャパン 2008年5月 Vol.332 宇多田ヒカル新作のすべてを語る

歌ってるときって別に何も考えない。すごく自分らしいような、あんまり自分って意識がないような感じ。歌手の友達と話してたら、そうだねって合意してたことなんですけど。多分、お経を唱えたお祈りする人って、自分のしてることや発声に気を使ってるから邪念がないと思うんですよ

oricon style 2004年8月2日 2万人が選んだ好きなアーティストNo.1 宇多田ヒカル

文献あさってたら、本人がはっきり「神との交流」って言ってたページを発見したので追記しました。↓(2020 12月)

”音楽の導くところ”っていうのがあって、それを辿っていくというか…。宗教じみた意味じゃないけど、神みたいなものと、そっと触れる瞬間があって。それが一番気持ちいいんですね。作ってると、途中で1回「うわぁ!キター!」っていう何かに触れる瞬間があって。歌っているときもそう。自分が消えてなくなって、空の上の何かとつながった感覚を味わうんです。白洲正子さんの本(「名人は危うきに遊ぶ」)にも、もともと舞台は神と交流する場だって書かれてたけど。まさにそうだなって。神との交流って感じがする。

オリコンスタイル 2007 7月30日

彼女は若いころ、先輩芸能人にも敬語を使わず、あまりにもフランクに話していたため、礼儀の国ニッポンにおいてそこそこの反感を買った。大人を馬鹿にしてるとかじゃなくて、誰であろうとフラットに”一人のヒト”としてしか見ないからあまり「先輩」とか「大人」とか意識しないのだろう。どんな大人に何を言われても「へー、大臣の意見はそーなんすねー」くらいに受け流してそうな、悪気無く不遜な感じ。「絶対に媚びねえ。神(音楽)にしかかしずかねえ」という姿勢。

姫じゃない。アレは人間社会的な上下関係をどーでもいいと思ってる。

第一、仮に姫だとしたら彼女には国(キャリア、業界、社会)とか国民(ファン)に対する執着とか愛がなさすぎる気がする。ファンクラブを作らないのは「税金とか納めなくていいよ。そのかわり政もしないから☆」ってことだろう。

“私は司教じゃなくし、偉い人でもないし、そんなこと考えてたらたぶん曲書けなくなっちゃうし。”

まあ確かに「国を背負って生きる!」とか一番向いてなさそうだ。「いつか死ぬとき、手ぶらがbest♪」なんて歌っちゃうくらい身軽が一番!という価値観をお持ちのようだし、20代前半のインタビューで彼女は「責任放棄願望がある」とか「部外者でいたい」と言っていたけど、王族なんて言っちゃえば責任の塊みたいなものだし。

とか考えながら過去のインタビュー記事を漁ってたら、やっぱりそれを裏付けるっぽい発言を発見。

――もしかしてこの曲は自分個人のことだけでじゃなく、影響力のある人として世の中のことを歌った曲なのかな、と思ったりもするんですけども。

宇多田 そういうことは考えないですね、作るときは。うん。私が音楽を作るときはただ個人としてで、全然影響力があるからとか、みんなが見る歌詞だからとかじゃなく、ほんとただ、誰も見ないであろうとも書くような普通の個人的なことを、ただ一人の女の子として書いてて。で、結局、世間のみんながそれを聴くときは私から直接ではなくて、私の出来上がったものと向き合う作業がみんなと次に来るわけで…何言ってるんだろう?(苦笑)。だから私が直接皆にどうこう言うんじゃなくて。私は司教じゃなくし、偉い人でもないし、そんなこと考えてたらたぶん曲書けなくなっちゃうし。でも出来上がったものはみなさんのところに、”どうぞ、いってらっしゃい”みたいなクッションがあるからやってけるのかなと思ってる。私が直接『First love』を買った800万人と向き合ってるんだと思ったら頭おかしくなっちゃうと思うから。

※切り抜きで保存してたので、引用元の雑誌名がわかりませんでした…。

歌う哲学者

タイトルで宇多田ヒカルは巫女!と釣っといてなんだけど、より誤解のないように彼女のアーティストとして生き方を表現すると”歌う哲学者”

なぜそれをわざわざ訂正して表現する必要があるのか。

巫女(=宗教者)と哲学者の違いとはなんなのか。

私は宗教と哲学は実はほぼ同じものだと思っている。2つは「どうすれば”良く生きる”ことが出来るのか」とか「生きる意味とは」みたいな「人生において最も根幹的だけど、考えなくても生きていける問題」を真剣に追及するという点で同じである。

違いは「他者救済のために、その哲学をシェアさせよう※という自発的行動があるか」つまり布教意志があるかどうか

分類としては、宗教は哲学の派生形。宗教は他者と手を繋ぐけど、哲学は一人で手を組む。(故に私は宗教のことを「シェアされた哲学」と呼んでいる。)逆に言えば、哲学は勝手にでもシェアされれば”結果として”宗教になりうる。

※シェア……単に哲学を公表するだけではシェアにはならない。share(英)の意味は「共同使用する、責任などを共に負う、人に使わせる、共に味わう」など。つまり、相手にその哲学を定着させて、初めて「シェアさせる」と言える。運命共同体的な意識があるか。責任を取ろうという姿勢が(見せかけでもいいから)あるか。

尾崎豊が好きなのは、根っこが共鳴している?

「盗んだバイクで走りだす♪」で有名な尾崎豊は「若者のカリスマ」として崇められたが、本人はそうやって神格化されるのが嫌だったらしく、また彼の制作パートナーでプロデューサーの須藤晃いわく「哲学者に近かった」そうな。(参照:https://dot.asahi.com/aera/2016042100238.html?page=1)

そういう同族性を感じたのか、宇多田ヒカルは尾崎豊の大ファン。

私がこの二人は似てるなーと思うのは「え、泣いてる?」と一瞬心配してしまうほど、苦しそうに歌うとこ。身をよじらせ、眉間にしわを寄せ、いまにもちぎれてしまいそうな声で歌うとこ。痛々しいんだけど目が離せない感じ。危ういからこそ目が離せない。モテそう。

“救済って他者の中にないじゃないですか”の意味。

彼女の「人間界のことはどーでもいい。音楽とか内面世界(神の世界)とだけ向き合います」という一種の出家感とでもいうのか、真善美を追求するストイックさから、私は彼女を巫女に例えただけで、明らかに宗教家ではない。

彼女には神の声をリスナーに伝える!みたいな使命感は一切なくて、ただ「自分にとっての真善美を追い求めてたらこんなんでけた」という極めて個人的な軌跡を公開しているだけ。結果としてリスナー(ファン)を救済してるんだろうけど、本人は宗教者的な認識でこの世を生きてない。

↑のインタビューの「私は司教じゃないし」っていうのは「他者の救済に使命感とか持ってないです」って意味だと思う。

それもあって「救済って他者の中にないじゃないですか」というプロフェッショナル仕事の流儀での発言は、「他者や音楽の存在そのものが救済なんじゃなくて、なにかを救済だと思う自分の気持ちが救済なんだ、自分を助けるのは自分の心なんだ」ということを言いたいのかなと私は解釈した。

なんていうか、ブッダかよって感じです。まったく、沙羅双樹の苗をプレゼントしたくなります。くまちゃんと涅槃ポーズでジャケ写撮らないかな。

……もしかしたらシッダルタ(ブッダ)みたいに、最初は王子(or姫)として、いい子として頑張ろうとしたのかもしれない。それがキツすぎて出家したのか……。(Ah 泣きたい♪)

でも、そもそも姫ってほど女の子女の子したキャラじゃない。性格もファッションも声も。どこの世界に「ずっと男になりたかったんですよ」としょっちゅうインタビューで答える姫がいるのか。

姫って、(というか王族?)って、女子アナみたいなものだと思うんですよ。

賢過ぎない知性を備え、控えめな態度で、上の歯を6本だけ見せる”小綺麗な笑顔”を常に保ち、シミ・皺ひとつない真っ白いハンカチみたいな模範的経歴の持ち主だと、大多数の人に(女子アナの場合、7割男性に)思われなきゃならない感じ。常に万人受けを強いられてる感じ。「君はキレイなハンカチだもんね?」という期待に応える使命感を手放してはならぬ生き方。そのスタンスで多忙な仕事をこなす……私なら2秒で死ぬ。

まぁ実際、「そう思われた~い、だってそーだもん♡」って気持ちも少なからずあるから、死んでない方が多いんでしょう。というか、幼い頃からクラスの男子多数が抱くそういった期待に応えてきた屈強な娘たちだけに門戸が開かれた世界なのか。


終盤、だいぶ脱線したが、以上が私が思う「宇多田ヒカルは歌”姫”ではないだろ説」の理由である。他者に受け入れられることを重視する”姫”という極めて社会的な生き方と、「絶対迎合しない。無視は流石にしないけど」というゴーイングマイウェイの宇多田ヒカルはあまりにも違う。あれは世捨て人と言ってもいい。

と、に、か、く、姫ではない。

そのうち『音楽(芸術)に責任はあるのか』というこの記事の続編のようなものを書く予定なので、ほんのり期待していてくださいませ。それでは。

追記:歌姫ってdivaの訳語だった……!

何名かの宇多田ファンの方にTwitter経由でこのブログを読んでいただいたのだが、そのうちの1名から衝撃の事実を伺った。

『歌姫ってdivaの訳語であって、王女様って意味ではないと思うぞ?』

この記事の根幹を揺るがす事実……だけど、まぁ、いっか。

一応、せっかくだし、罪滅ぼしに?divaの意味を調べてみた。

divaとは?

プリマドンナ、花形歌手、優れた才能を持つ女性、高慢ちきな女

divaはラテン語で「神がかり的な、神々しい」といった意味。

ちなみに、「高慢ちきな女」という意味はスラングで、プリマドンナは気が強いというイメージだから生まれたらしい。確かに、オペラ座の怪人のプリマドンナだったカルロッタは高慢ちきだったな。<

追記2:史上最強に、寝てた自分をぶん殴りたい案件

実はこの記事は2019年の1月に前のブログで書いたものなんです。

なのでこのツイートがされたとき、「私はこう考えたよ!」とリプライしていれば、どれほど多くの人に読んでもらえたか……あわよくばHikkiに読んでもらえたかもしれなかった……のに私は寝ていたんですね!!!!!

ほんっっっっとうに人生で一番「なんで起きてなかったんや、自分」案件です。悔しくてならない……。

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