私にとってブログとは、自分の経験・能力を換金できるか検証するプロジェクト。

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52円。

ここ半年、私が本気でブログを運営して、やっとこさ稼いだ金額である。

1記事を書くにあたり最低でも4時間、記事によっては事前調査だけで数日かけているものもあるので、時給は1円にもならないだろう。

ブログはSEOの特性上、労力の成果は数か月~数年経たないとわからない。期待した結果が出る保証もない。それでもめげずに大量の時間と労力を注いで試行錯誤を続けなければならない。

まるで出口不明の暗闇の中を、ひとり手探りで這うような活動だ。

まっとうに努力しても、最初の数か月はアクセス0、検索順位は50~100位なんてことは普通オブ普通。「ブログは9割が挫折するって聞いたけど、なるほどね……」と思ったものである。

金が欲しいだけならとっくにブログに挫折していただろう。

私のポリシーの1つに「来るか分からないものは待たない」というのがあるのだが、雑記ブログで6桁以上の収益を生み出すのは来るか分からない未来である。

いくら上手くいけば不労所得の世界とはいえ、数百時間かけて収益0!なんてことになる可能性が十分にあるのだ。そんなハイリスクな賭けをするなら語学の勉強に励んで、フリーランスの同時通訳を目指す。

それでも私が時間と労力をブログにかけるのは、自分の経験・能力を換金できるのか検証したいからだ。

「やれば出来るはず、まだ本気出してないだけ」と思ってるだけで、なにもやっていない自分が気持ち悪かったからだ。

目次

経験を換金したい

私がブログを書く理由はこの広告と同じ構造だ。

その思い出、言えば自慢。書けばコンテンツ。

その悲劇、言えば引かれる。書けばコンテンツ。

その屈辱、秘すれば恨み。書けばコンテンツ。

その感想、秘すれば無に帰す。書けばコンテンツ。

その思考、語れば理屈屋。書けばコンテンツ。

その苦労、秘すれば苦労。書けば超コンテンツ。

経験・感想・思考は自分の中にしまっておいても何にもならないが、他者に見えるようにコンテンツとして編集すると財産になることがある。

人間にはあれやこれや自分一人で実践・経験する余裕はない。時間は増やせないし、体力・お金だって限られている。何より、「考えて選ぶ」というのは超・面倒くさいタスクの1つだ。

自分で体験し、そこから思考を重ねて物事の見解を導き出すのを、種から育てる作業とすれば、「誰かの経験」「その経験から導き出された見解」を手に入れるのは、ある程度、育った苗を分けてもらうようなもの。需要は十分にある。

また書き手からすると「こんな情報が?」と思うような些細な情報でも、持っていない人からすれば重要なパーツということは全く珍しくない。むしろ些細な情報すぎて出回っていないから、お宝だったりする。

例えば「昭和記念公園のライトアップ、綺麗に撮るなら庭園オープン直後に入った方がいいよ!」という情報は些細なことだけれど、「映える写真を撮るんだー!」という人にとっては超重要なパーツになる。

「自己肯定感ってなんだろう?どうしたら上がるんだろう?」と思う人には、私の見解は「なるほど、そういう考え方もあるな」と新たなデータとなりうるし、

私が個人的に辛かったことを書いた記事を読んだ人の中には「あぁ……わかる。私もそれが辛いと思ってた」と代弁された気分になって、すっきりするかもしれない。

自分の経験・思考が換金できるかもしれない。しかも誰かの訳に立つかもしれない。

私が得意な「物事を言語化すること・1人で企画→実践→分析すること」を一番活かせるのはブログかもしれない……。

「まだ本気出してないだけ」はダサイ・痛い。

昔から「話が面白い」と言われ、噺家になっては?エッセイストになれば?と言われたこともあった。「どうにかしてソレを活かせないかな?もったいないよ」と何度も言われてきた。

そうやって生きてきた結果、次第に自分の中に「私はやれば出来るはず……フフフ」という気味の悪い自信が積もるようになった。それが怖かった。

何もしてないのに「ま、私はまだ本気出してないだけだし?」とか思ってるような人間にはなりたくない。それは痛い。

じゃあ本気を出してみよう。私の経験・能力は換金できるレベルのものなのか検証しよう。

そう思ってブログを始めた。そんな経緯で始めたので正直、最悪稼げなくてもそれはそれでいいと思っている。

やるからには結果を出したいし、元を取りたいけど、結果が出なければ「私はそのレベルだったんだな」と現実を見れるからだ。

+α 世の中の記事(コンテンツ)への怒り

「1か月で-4センチ!?」「脚痩せに効果絶大!」とタイトルで謳っているけど、中身が抽象的すぎ・デタラメをそれっぽく書いているだけで全然参考にならない記事を見たとき。

論理的とは?とか、感性とは?といった抽象的な問いに対し、「おまえ、絶対にろくに考えないで辞書からコピペして、それっぽいこと書いてるだけだろ」と思う記事を見たとき。

こういったのを見たとき、私はわなわなと震えながら脳内でこのようにクレームを言っている。

部分痩せは科学的に存在しないし、1か月で-4㎝は元の数値によって難易度が違うだろ!適当書くな!

辞書からコピペしたような内容の記事読むなら、辞書読むわボケ!辞書読んでしっくり来ないからググってるんだよ!

浅い、浅すぎる!!書くならもっと深堀れよ!!

なかなか読み応え・読み甲斐のある良質なwebコンテンツに出会えない。特に最近はタイトル詐欺・サムネ詐欺のなんと多いこと。

あと「人による」とか「人それぞれ」っていう便利な言葉で結論を明言しないコンテンツとか。

「人による」で全部片づけるのは、天気予報で「まぁ未来のことなんて誰にもわかりませんからね」と全ての地域の降水確率を「50%かも?」にするようなもの。物書きなら、わからないなりに考えて推測して書けと思う。

ex”「良い声とは?」という問いに「好みによります!すべての人の声には個性があります。誰一人として同じ声の人はいません✨」みたいな内容を書いてる記事とか。結論が【辞書のコピペ×綺麗事】の記事を読んだ時のフザケンナ時間返せ感がスゴイ。

こんな感じでまぁまぁ面倒くさい人間なので、釣り臭い、怪しげなサムネやタイトルを見たら「絶対にクリックなどするものか」と謎に強い意志が湧く。

うっかり、こういったコンテンツにアクセスしてしまったときは

「あぁ、しまった!!ちくしょう!こんなのに私は1PV(or 1回分の再生)をあげちまったのか!」と、本気で悔しがり、Googleに1円払って今の1PVをノーカウントにして貰えんだろうか?とすら思う。

それがアクセス(再生回数)が伸びる効果的・合理的な策だとしても、内容に見合ってない・消費者の誤解を招く紛らわしいタイトルやサムネで発信する人に対して、

「紛らわしいことしやがって……」と、いち消費者としてムカつくし、

「恥ずかしくないのか」と、いち発信者として勝手に憤る。

そんなこんなで世の中のコンテンツにうんざりして、「もういいわ、お前の記事読むくらいなら自分で書くわ!!」と思ったのもブログを始めたきっかけの1つである。

書く側に回った結果、最近はクソみたいな記事が検索1位にいると「あ、このテーマ、ちゃんと書けば1位取れるんじゃね??」とお宝発見気分になるようになりました。

以上、私がブログを書く理由でした。

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