自己肯定感とは何か?日本人の自己肯定感が低いのは謙遜の文化で○○が下手だから??

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私は「自己肯定感が高いよね」と耳タコになるほど言われてきた人間なのだけれど、正直、言われるたびにこう思っていた。

「私が人より自己肯定感が高いのは認めるけど、、、逆になんでそんなに自己肯定感が低いの??なんでそんな卑屈なの?」と。

そして20数年生きてきて、たまたま私の周囲に自己肯定感が低い人が多かったのではなく、自己肯定感が低いのは日本人の国民性の1つなんだなと知った。失礼を承知で言えば、私からすると「卑屈がデフォルトな社会」だったのだ。

日本社会と自分との間に多大な自己肯定感ギャップがあったおかげで、少々生きづらい経験をしていたこともあり、「自己肯定感ってなんだろう。どうして日本人は自己肯定感が低くなりがちなんだろう」と頻繁に考えるようになった。

そして最近、日本人の自己肯定感が低いのは、謙遜の文化によって「自己価値を肯定するのは、はしたない」という意識が刷り込まれているからでは?しかもその結果、自分も含めて”人を褒めるハードル”が高くなってしまったからでは?という仮説が生まれたので、ここに書き残すことにした。

目次

そもそも自己肯定感とは何か?

上述した仮説の説明のために、まずは私にとっての自己肯定感の定義を説明する。

自己肯定感とは「なんだかんだ、私は価値ある存在だ」という漠然とした自信である。「○○が出来る=私は価値がある」みたいな根拠がくっきりしている自信ではなく、いままで生きてきて得た自分への評価が積み重なって形成される、漠然とした自信だ。

ただ、これは「一言でわかりやすく表せば」という話であって、正確には自己肯定感の定義は2種類ある。なぜなら「肯定」という言葉に2種類の意味があるからだ。

肯定とは……

  1. そのとおりであると認めること。(=要素の肯定)
  2. 積極的に意義を認めること。(=価値の肯定)

これらを自己肯定感の定義に当てはめると、下記2種類の自己肯定感の定義が生まれる。

2種類の自己肯定感

  1. 「私には○○な人間であり、▽▽な人間だ」という、その通りである肯定。
  2. 私には価値がある・私は必要な人間であるという。存在価値の肯定。

➀の具体例は「私は丸顔で自己主張の強い人間だ」とかだ。この➀の自己肯定感はいわば「現実を受け止めている感」である。

問題は②の「存在価値の肯定」の自己肯定感だ。日本人はこの自己価値の肯定がめちゃくちゃ下手くそなのである。

「自己価値を肯定する=はしたない」という文化

褒められたとき、「そんなことないです」「まだまだです」と咄嗟に出てしまう。

「私○○が上手いので~」と自分の長所を自分で言える人に、(自分で言うんだ……)と良くも悪くも少し引いてしまう。

これは日本人あるあるだろう。

ご存知の通り、日本は謙遜=美徳の文化なので、「私は大したことない者です。もっと精進せねば」が基本姿勢であり、自己価値を肯定する人は異色である。

褒められても、謙虚に謙虚に、謙遜して謙遜して、ようやく1口分だけ「まぁ…」と肯定する、それが美徳。

謙遜の文化において、自己の価値をすんなり肯定するのは、はしたないのである。

その文化は誰かに教えられなくとも、そういう空気で包まれた社会で生きれば、おのずと身についてしまう。

卑屈ともいえるが、自分に慢心しない・飽くなき向上心とも言える。日本が車やサービス等、クオリティの高いものを生産できる理由の1つでもあるだろう。

ただ、この謙遜の文化は自己肯定感を下げる様々な要素を生み出すのだ。

  • 型どおり謙遜しているうちに、自分に価値があると認めづらい心になる。
  • 褒めても素直に受け取らない人が多いから、人を褒めるハードルが高い。
  • 自分を卑下して「もっと精進!こんなのまだまだ」と、どんどん理想を上げてしまい、次第に理想とのギャップにより自信をなくす。

「私なんてまだまだ……」という言霊

言霊という言葉はオカルト感があるが、決してバカに出来ないもんである。

私は昔、男好きと噂されたのがイヤすぎて男嫌いを自称し、そのように振る舞っていたら本当に男嫌いになってしまったことがある。

数年後、「よく考えたらなんでそんな嫌ってたんだろう……」と炭酸の泡が抜けるように男嫌いは治ったのだが、毎日そう自称して過ごし、周りにもそういう人として扱われると、人間は自己催眠できるとわかったときはゾッとしたほどだった。

一説によると、人間は1000回言い聞かせるとソレを真実だと思うらしい。「本当はそんな風に思ってない。形式上そう言ってるだけ」というつもりでも、脳は行動によって物事を判断する。

言霊という言葉が生まれたのも、人間にそういう部分があるからだろう。

なので、私のケースほど極端でなくとも、数十年「私なんて大したことない」という振る舞いをしていれば多少の影響はあるのではないかと思う。

また自分を粗末に扱っていると、次第に他人から「こいつはそういう人」と認識され、粗雑に扱われやすくなる。

※その男嫌いについての記事はこちら↓

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褒め甲斐がないから、人を褒める人が減る。

謙遜の文化の社会では、「そんなことないです」「とんでもないです」「お上手ね」と褒め言葉をかわす人が多い。

しかし褒め言葉をかわされたら話は「いやいやそんな」「いやいやホント」と着地点の見えないイヤイヤの応酬になってしまう。会話は弾まないし、「ごめん、確かに大したことないわ。気のせいだったわ」などと引っ込めることも出来ない。

「そんなことないです」と言わないと引く人がいるのは確かだが、「そんなことないです」と言われると場が締まりにくいのも事実だ。褒める人間にとって謙遜の返しは、不正解とまでは言わないが、楽に会話が終わる返しではない。

日本人は相手にどう思われるかを気にしやすい性格上「いきなり褒めたら変に思われるかな?ゴマを擦っていると思われるかな?この褒め方って失礼じゃないかな?」と褒めのハードルがただでさえ高いのに、褒め甲斐のある反応が返ってこないので、更に褒める気をなくしてしまう。

褒めが少ない社会になった結果、自分に自信を持つきっかけも少なくなり、「他人から褒められない=この程度では褒めに値しないのだ」と、自分を褒めるハードルも高くなってしまっているのだと思う。

山猫

余談ですが、私は自分で自分を褒めまくります。「困ったな、私ってば天才か?」とか「いや~、この配色センスは神がかってるな」とか。

褒めの自給自足と読んでいます。

最後に  ~自己肯定感を上げる方法~

難しいよね、、、「私は大した者ではありません」と謙遜の文化に則ることと、「私は価値ある存在だ」と信じる自己肯定感って、対角線上にあるんだもの。

もちろん、「自己肯定感が高くて、謙虚な印象もある人」もいるにはいるけど、その匙加減の難しさよ。

山猫

”自惚れ野郎”のレッテルだけは回避したい、、、そう切に願って生きた結果、自己肯定感の高さの平均値が下がっているんだろうな。

もはや謙遜の圧政?まぁでも日本で謙遜の文化に抗って生きるのは茨の道ですからね……

どうすれば謙遜の文化に潰されずに、自己肯定感を上げられるかな?と考えてガリガリ書いたところ、結構なボリュームになってしまったので、別記事にまとめました。

「価値の無い人間などいません。あなたは価値があるのです。信じましょう!」とか言われて、「そうよね、よく考えたら私って価値あるわ!!」と、つるっと思えるだろうか?

思えなくない?無理くない?

凝り固まった気持ち・思い込みはそう簡単に変えられないから、まず行動を変えてみない??

そう思って書いた記事です。よろしければ。

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